1878年〜現在
岸和田教会のあゆみ
パリ外国宣教会時代
(1878年~1948年)
キリシタン解禁の布告とともに宣教師たちは活発に宣教を開始した。そのころ、大阪川口教会に一求道者の青年が訪れ、岸和田出身であることが契機となりクザン神父は岸和田にある武家屋敷の一画を借りて伝道を開始した。その青年森辰蔵に神父は1878年12月29日ヤコボという霊名で洗礼を授け、この年をもって岸和田宣教の初年とした。
アンリ・ワスロン神父は岸和田市筋海町(現在地)に天主堂を建設。(守護聖人は聖ミカエル)信徒が100名を超す。ワスロン神父は7年間、和歌山より巡回した後、1888年にはレオポール・シュケ神父が着任定住したが、翌年から再び和歌山からシュケ神父の巡回教会となる。1895年永田辰之助神父による巡回が始められたが明治28年の台風で教会は倒壊した。
2代目聖堂が再建され、2年後には教会の敷地を広げ、司祭館が建てられた。翌年1900年には南海電鉄が泉佐野まで開通し、再び川口教会の巡回聖堂となる。
2代目聖堂
マキシム・プイサン神父が着任定住。17年間にわたり宣教司牧に力を注いだ。
神父が伊勢の津教会に転任すると岸和田教会は司祭不在の教会となった。
正式に小教区として独立し、110名の信徒をもって初代主任神父はプイサン神父が任命された。この頃から岸和田の紡績工場に就職するため200名以上の長崎からの信徒が転入。信徒在籍数が375名に増加し、仕事前の早朝ミサにあずかる熱心な女工さん達が信徒席からあふれる様子を目にした神父は、新しい聖堂の建築計画を企てる。
12月4日カスタニエ司教司式のもと3代目の聖堂献堂式が行われた。新聖堂後方2階には聖歌隊の席も設けられ、鐘楼にはフランス製の鐘が据えられた。現存する「十字架の道行き」は、プイサン神父が当時フランスから輸入したものである。
3代目聖堂
プイサン神父は教会敷地を拡げ、幼児教育のため2階建て園舎を建て聖母園(聖母幼稚園の前身)を開園した。翌年プイサン神父が敗血症のため帰天(58歳)。岸和田27年間の永い司牧生活を終え、大きな足跡を残した宣教地日本に神父は埋葬された。
2代目主任司祭フラビアン・コルジエ神父着任。伝道婦を得て、9年間司牧した。
3代目主任司祭アメデ・ギリナン神父が着任。教区の福田神父とともに戦時下、戦禍を免れた岸和田で働き、戦後の混乱期にも多くの貧しい人々に援助を惜しまなかった。
ギリナン神父入院後、佐々木鉄治神父が4代目主任司祭として教区より着任。神父は神戸「少年の町」での活動に伴い、岸和田に於いても多くの少年たちを洗礼に導いた。
ザベリオ宣教会時代
ザベリオ宣教会時代
(1950年~1991年)
終戦後の数年は邦人司祭の数が不足したため、宣教師を外国より招聘した。田口司教は岸和田地区の宣教をザベリオ会に委託。同宣教会はその要請に応えて1949年12月に第一陣としてロンザーニ神父、シニバルディ神父、コッチ神父を派遣、岸和田に本部を置いた。3人の神父が日本語を習得する間は佐々木神父、山口鉄雄神父が協力して働いた。
ロンザーニ、ランチョッティ、サンバロ、ルカの各神父が主任司祭をつとめた時代で、求道者を導くとともに信徒の組織作りが行われ、事業所に出向き教えを説くなど積極的な宣教活動をした。日紡、テイサンでは99名が受洗した。青年会活動も活発化しレジオマリエ、JOCの組織が出来、司祭の手足となって家庭訪問、病院慰問に出向いた。
ダニエリ、アレッジ両神父の主任司祭の時代であるが、経済成長期を迎え、人々は物質的な繁栄を求めるようになり教会から求道者が減少、戦後急増した信者も遠ざかった。第二バチカン公会議(1962~65)により、「教える教会」から「対話する教会」典礼の刷新などの大きな変化で、信者一般にも戸惑いが見られた。そのため司牧と教育活動に力が注がれ、アレッジ神父は信徒の交わりと活動の空間作りなど、新設備を備えた教会の建設を構想。ザベリオ会でこの案が議決すると、自身の休暇を利用し、アメリカ、カナダの数々の教会に出向き、建築資金を集める骨折りを重ねた。
アウディジオ神父の司牧と、公会議後の成果が特色である。
4代目聖堂が完成。3月5日安田司教司式のもと献堂式が行われた。教会建物は4階建てで聖堂にはパイプオルガンの設置、カトリック画家、満田彗峰師制作の最後の晩餐のレリーフ、正面壁に組み込まれたステンドグラスの十字架などがシンプルなデザインの祭壇に彩りを添えた。公会議で刷新されたミサ典礼に信徒が積極的に関わり、役割果たし、聖書の朗読、助任司祭クリョーネ神父作曲の典礼聖歌を歌った。宗教教育に力を注いだアウディジオ神父は子供達を熱心に集め、70名程の子供達が教会学校に通うようになった。
アウディジオ神父より主任司祭を引き継いだマンニ神父は助任司祭のフランコ神父、ピアッティ神父とともに力を合わせ日曜学校や地区青年会などで青年の活動を指導した。アレッジ神父は高山貞議の名で1980年日本に帰化し、1982年より再び、岸和田教会の主任司祭として着任した。多くの求道者を受洗に導く傍ら、岸和田市流木墓地の納骨堂建設に向けて、市役所との度重なる交渉の末、建築許可を取り付け、納骨堂を完成させた。現在祭壇に設置されている木彫りの聖母像はこの時期に高山神父がイタリアから購入した。
アンドレア・ボナッティ神父が着任。初めて信徒による評議会選挙が行われた。
教区司祭時代
教区司祭時代(1991年~)
小池次郎神父が助任司祭グレッグ神父とともに着任。パイプオルガンの故障で、アメリカ・アレン社のオルガンが購入された他、音響設備の改良、聖堂、ロビーの冷暖房設備の付け替えなどが果敢に行われた。1995年1月17日に発生した阪神淡路大震災に際して、数ヶ月にわたり、教会を基地とし数千個のおにぎりを作り、深夜に配送を続け、現地に於いてもうどんやおでんの炊き出し等、各教会と協力し、信徒も心を一つにして活動した。
土田裕造神父が着任。評議会の体制作り、入門講座の開設、聖書の分かち合いによる信仰養成の強化を指導した。またエルサレムを始め聖地巡礼が数多く企画実行された。
岸和田教会、浜寺教会、和泉教会が共同宣教司牧となり、「岸和田地区いずみブロック」が誕生した。これによりブロック担当司祭が3教会の司牧を担うこととなった。松浦謙神父(岸和田教会居住)、山口武史神父(浜寺教会居住)、マストロット・セヴェリノ神父(和泉教会居住)が担当司祭となった。創立125年記念誌「主の息吹」を発行する。
松浦謙神父、川邨裕明神父、マストロット神父がブロック担当司祭となり、「いずみブロック将来ビジョン」の作成プロジェクトチームが発足した。
松浦、川邨神父に協力司祭としてシルバーノ神父が加わる。この年よりフィリピン人信徒からの熱い要請で毎月1度土曜日の午後、英語ミサがスタートした。
松浦神父、野田正弘神父が担当司祭になりミサローテーションが組まれる。「いずみブロック将来ビジョン」最終答申が出された。
野田神父、申 繁時神父が担当司祭となり、ミサローテーションが続けられる。
3月11日東日本大震災が発生し、震災地への援助活動に参加する。
野田神父、申神父に協力司祭としてフラビオ・ベスコ神父が加わる。
村田稔神父、カルロス・ムニジャ神父がブロック担当司祭として着任。
11月教会創立140周年記念ミサと2年間岸和田教会に居住し日本語研修を続けた淳心会ガル・アルジャンダ・ブブンさんの助祭叙階式が前田万葉枢機卿司式のもと、執り行われた。同時に創立140周年記念誌「み手のうちにすべての人と」が発行された。
村田神父、ジュアン・ロムアルドゥス神父(ザベリオ会)が担当司祭となる。少子高齢化が急激に進む一方で、地域で働く外国人の信徒の数が増加し、多国籍の信徒がミサの席を埋めるようになった。現在は毎月1度の英語ミサを始め、複数の言語での共同祈願や主日のミサ典礼で英語優先の日をもうけるなど、「イエス キリストに於いてひとつである教会」の実践、外国籍信徒との交わりの恒常化を目指し、あゆみ続けている。